昭和45年8月7日 夜の御理解
「信心は 源 頼光 です。」
今日は、あの、おー、伊万里の竹内先生がお参りになって、今朝の御理解を頂かれましてね。えー、ほんとに、まあ、何時ものことながら、いわば、感銘して話されるのに、最近、私が読ませていただきました書物の中に、こういうことが書いてありましたといって、えー、話しておられます。それはね。んー、まあ、先生あたりのことですから、まあ、大変難しいお話、まあ、心理学的なお話しのご本らしいです。えー、その、著者がね、言っておることは、人間はね。えー、例えて、まあ、私が、解釈し得たところで、まあ、申しますと、もう、百だけはね、言うなら、おかげが頂かれるのに、自分を否定するために、その、四分の一の、二十五しか幸せを獲得し得ていないということです。これは、もう、心理学的に、統計的に、ま、色々な学問の上でですね。そういう事になってるというんです。してみると、馬鹿らしいですねえ。まあ、まあ、七十五は、お互い、幸せになって言い訳なんです。まあ、これは、金銭だけで言うならば、ほんなら、二十五万円貯金を、が出来るならば、まあ、七十五万円は、貯金が出来るはずだというのです。それは、どういうことからかというとですね。自分を否定するからだと言ってるそうですね。自分を、その、否定するということ。そげなことなか。そげなこと、っち、まあ、言うことなんですよ。ね。肯定するじゃに。まあ、御道の信心は、大体、否定もなからなければ、肯定もないといわれておりますよね。これですんだとは思いません。そこにね。私は、御道の信心のいわゆる、無限大に繋がる、私は、おかげを頂かれる。もう、だから、信心して徳を受 けておかげをうけるということは、もう、百だけではない。もう、二百も、三百も、千も万もという事になるんですよ。信心ち言うのは、そんなに素晴らしいことなんですよ、だから。ね。普通、信心のないものでもです。信心のないものでも、自分を否定する、そういう、じょう、えー、その、心からはですね。ね。言うならば、百円儲かるとは、二十五円しか儲かっていないという事になるんです。私は、その事をね。今日、あの、丁度、繁雄さんが、まだ、後を整理されたばっかりで残っておられました。私と、久富さんで聞いたんです、その話を。それで、私、その話を聞いておりましたときに、頂くとが、さっさとこの、畑の草取りをしておる所を頂きますけん、ああ、こら、今日は繁雄さんな、今日は、草取りなさったのは、繁雄さんの事ぐらい思うとったです。そしたら、今の御祈念にね。その事を頂くんですよ。竹内先生が、ああ、今日、ああ言われた。ね。人間は、まあだ、まあ、七十五だけは幸せになって良いはずだと。いわゆる、まあその、人間は、四分の一しか幸せになっていないと。まあ、不幸せと、こう言うか、まあ、分かりやすく言えば、そうですよね。それは、どう言う訳かというと、自己否定をするからだと。ね。もう、自分は詰まらんとか。ね。もう、自分はこのくらいしか能力が無いとか。いいや、そういうことはないと。例えば、信心しておかげを受けるといったようなことでも、聞いても、そげなこつが有るもんかと言うて否定する。ね。私は、まあ、そういう意味に竹内先生の話を聞いて、こら、本当に、いー、いわゆる、興味有る話しだなと思いました。そういうことが、学問的にでもです。本当に、世界中の人達が、本当に、もちっと学問をして、そこまで分からして頂いたら、そんなら、果たしてその、人間の頂いておる、もう七十五というものを、どのようにしていただくか、獲得するか、そこの幸せを得る事が出来るかという事に焦点を、私は、置いたときです。ここは、人間の知恵、力ではどうにも出来ない世界なのです。ね。そこを、私は、教えるのは、生きた宗教だと思うです。いわゆる、真の信心だと思うです。してみると、皆さんはね、そういう意味で大変な有難いおかげを頂いておられるわけなんです。そこでですよ、ほんなら、御神縁を頂いて、合楽におかげを頂いておるからというても、ほんなら、今朝の御理解のようにね。今朝のご理解は、源 頼光ということを、私は、ご神前で頂いて、その事を、教典によって頂きましたら、あー、御理解何節でしたかね。えー、あのー、神も喜び、氏子も喜び、金光大神をもの喜びじゃといったようなね。そういう、自分だけの喜びとか、言うのではなくて、自分がおかげを受けるということが、金光大神も喜んで下さり、神も喜んで下さるといったような、喜びがおかげに繋がっておかなければならないということでしたよね。そこで、本来信心とは、頼みから始まるとね。みな、源ということは、元々ということですよ、いわゆる。元々信心とはです。頼むことから始まるのだと。ね。源。よりと、え、頼光の頼というのは、頼むと言う字でしょう。その、源 頼光という、それから、それを理解付けていただいたんですね、今朝の御理解は。ね。元々信心とは、頼むことから始まるのだと。けれどもその、頼むだけで終わってはならない。その、頼んだことによって、光を得なければならないというのが、今朝の御理解でした。光。だから、金光大神は、ね。おかげを取り次いで下さるだけではなくて、光を取り次いで下さるんだというのが、今朝の御理解でしたよね。今朝の御理解頂いておる人は、ね。もう一辺頂かれると良い。私は、今日、竹内先生が頂かれる。今日、何回もあれを頂いた。頂いて、なるほど、なるほどと合点する事ばかりであった。ね。ですから、果たして、お互いの信心がです。いわば、無限大のおかげというかね。そういうおかげに繋がるようなおかげの繋がり方をしておる信心かどうかと。それは、即、言うと、神も喜び、金光大神も喜んで下さる程しのおかげかどうかという事なんです。ね。だから、良くよく、そこんところを一つ分からなきゃいけんと。ね。ですから、そこに、お互いの信心というものが、一段一段、その頼む内容というものがです。ね。頼む内容というものが、行動になっていかなければならないと言う例を、まあ、言うならば、あー、熊谷さんの信心の一生。まあ、とりわけ、合楽での、二十年間の信心を、私は、例にしてお話したんです、今朝は。ね。そして、只今、私は、いただきます、今朝、竹内先生のお話をいただきながら、人間というものは、人間の、おー、百は得られるものを、自分の心を狭める。そんなこつがあるもんかと言うて、一つの型に押しはまってしまう。いわゆる、そういう事を、あの、否定する。その、否定する心がです。人間の百の幸せを二十五にしてしまっておる。これは、もう、ほとんどの人間がそうだと、学問的、いわば、心理学的に、そういう計算になって答えが出てくる訳なんです。だから、どうでも、馬鹿らしいですよ。ですから、ほんとに、信心によってです。ね。私共がです。本当に、無限大に繋がる信心をね。頂かなきゃならない。そういうお話を頂いておる時に、こう、草取りをしておるところを頂き、どういうことかと思うたらです。ははー、と私が今御祈念に頂きながら気が付いたんです。というのは、どういう事かと言うとですよ。例えばね、本当いやあ、この、一坪なら一坪にですね、ま、例えてですよ。一斗なら一斗のお米が取れるのに、草を一つも取らないから、ね。一斗取れるのが二升五合しか取れんという事になるわけです。ね。今日、竹内先生の教えて下さったことを、分かりやすく合楽風に、これは、それを説明して下さったものです。いいですか。一坪にですよ、折角、一斗獲れるだけの籾がです。ね。草を取らないばかりに二升五合しか獲れないということ。まめにこれは草を取っていきゃ、一斗獲れるのに、惜しいことだというのです。ね。草を取るということは、信心をするということでもありましょう。ね。いよいよ、自分の心の、この雑草を取り除く。改まりに改まって行くという事でも有りましょう。磨いて行くという事でも有りましょう。ね。信心の、真の軌道にでも乗るということでもありましょう。折角、一斗だけは獲れるはずのところに、二升五合しか獲れない。いや、これを信心者のものを、もし科学的とか、心理学的に検討して、御徳を受けた人達の事を見たらです。その、私は、学者がどういう風に言うだろうかと。これは、もう、金光様のご信心によったら、普通は、人間百しか頂けないものでも、無限大のそれに繋がるのだと。いわゆる、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃといったような信心に繋がったらです。ね。一坪から一斗しか獲れないところに、これは不思議不思議、ニ斗も三斗も、一石も獲れるというような事になってくる。というのが信心なんです。ね。いわゆる、私が言う、無限大に繋がる信心。横8です。ね。それこそ腹がよじれるような事があっても、ね。例えば、腹が立つなら、腹が立つ。情けないなら、情けない。本当に、腹がよじれるような思いをする。その事をですね。昨日、善導寺の原さんが、御心願に頂いておられるのが、菊の花を、見事な菊の花と、それから、見事な、その、かんなの花ですね。今、咲いてましょう。夏の花です。を頂かれたんです。ま、菊の花は、信心の、合楽の信心の、ま、シンボルのように言われております。ね。熊谷さんが、もう、それこそ、十何年も、やがて、十五、六年もなりましょうかね。あの、短冊に書いたものを頂かれたのは。ね。それには、えー、どれほどに、お手間かかりし、いー、菊の花か。という句が記されてある。それこそ、腹の中がよじれるような事柄でもです。ね。そういう問題の対象が、むしろ、御礼の対象に現在ではなっておるんだと。あの人から、もう、本当に、永い間、いじめ苛め抜かれた。その人のことに対してお礼が言えれるのだ。その人の今、もう、今日私、改めて聞いたんですけれども、今日、私、八十て言うて話したけど、もう、そのお婆さんは、九十になられたそうです。ね。今朝も、その事をお届けされた中にあるんです。ね。あれだけ、もう、それこそ、もう、物にふ、もう、何一つ不自由の無い、結構なお婆さんにあろう様に見えるけれども、それはそれは、心の中の寂しさを聞かせて貰うと、本当に、一緒にもらい泣きするごたる感じなんです。はー、ほんに、そういう時に、信心があったなら、それも、有難く受けられろう物に、その事は、かえって、反対にお礼ば言わんやんごたる事たいと言うことの中にです。もう、言うならば、両足棺に突っ込んだようなお婆さんが、苦しみ、または悲しみ、または腹、憤りですね、いわゆる。子供やら嫁たちに対する憤りなんです。と言ったようなものをね。今日、私、改めて聞かせて頂いたが、ほんに、信心の有る者とないものが、なるほど、幸せというものをです。ね。百頂けるものを、二十五パーセントしか頂けん。いや、二十パーセントしか、十五パーセントしか頂けていないという者もあろうと私はおもう。ね。それを、まあ、精進努力して、五十パーセントも頂いたなら、そら、大変な良か方じゃろうと、こう思う。ところが、信心というのは、その、百頂くだけではなくてですね。限りないおかげに繋がっていけれる、それを御神徳の世界とこう言う。そういうおかげを頂かせて頂くために、、お互いが精進させて頂いておるのですよね。ね。それには、如何になるほど、信心の道に精進しなければならないかと。信心の道に精進するという事は、どういう事かというと、なるほど、改まることが第一だ。本心の玉を磨くものぞやと、ね。限りなく美しゅうならして頂こう、一生懸命で修行、だから、せっかく、修行させて頂くならです。ああ、また参らんならんじゃなくてです。ね。例えば、三里の道をそれこそ、あの、椛目の時代なんかは、熊谷さんなんかは、もう、草野から歩いてですよね、真っ暗い中を。それがです、合楽になったから、今、バスで通うて見えられますけども、しかも、朝と晩と二回です。これこそ、金に不自由があるじゃなし、人間関係がどうじゃなし、もう、一切の上におかげを受けておられる熊谷さんがそれなんです。信心とはね。そこまで高めなければ駄目なんだ。ね。信心がありがたい、楽しみにならなきゃ駄目なんです。ね。もう、徳の世界に自分が入っていくことが、もう、楽しみでたまらんのだ。自分じゃない、自分以外のものが助かっていくことが、もう楽しゅうでたまらんのだ。というように、話を聞いたから、一遍にというわけにはいかんけれども、一段一段、一つ進めて、ね。そこんところに焦点を置かなければならないと。今月の焦点が、願いに徹しよであります。ね。願い月なんです、今月は。先月が修行月。祈念力を作ろうということであった。今月は、この、願いと言うても、喜びを持って根とするという願いである。ね。ということは、どういう事かと言うと、どういう事でも願うて良いと言うてある。もう、本気で願おうというのである。けども、その願いが、神も助かり、氏子も立ち行き、金光大神をも喜びというようなです。ね。勿論自分も喜べれるおかげの頂けれる願いに徹しよという事なんです。どうでしょう、皆さん。今日は、とりわけ、総代会ですから、総代の皆さんがです。その気になってです。そういう信心を頂いていくという事を、楽しみの信心に、どうでもなって頂きたい。そして、後から進んで来る者達にです。その一つの手本を見せて頂きたい。こういう家庭でした、私のほうは。けれども、私のしん、その事を持って、私は、こう、改まって行き、こう、雑草を取り除いていったら、こうおかげを頂いてきておりますよ、皆さん。と、皆さんに話して頂けれるような信心を頂いてもらいたい。なら、お願いしてから、こげん商売が繁盛しよります。と言うだけじゃいかん。その、繁盛をしよる御商売を持って、このようにお役に立っておりますという話が出来るところまでです。信心が高められなければ駄目なんです。ね。今月の、いわゆる、願いに徹する。いよいよ、おー、二十日には大祭が、夏の大祭。勿論、この夏の大祭を年に一回の祈願、祈願のお祭りと、こう言われておりますから、そこを、祈願のお祭りを焦点にです、お互いが、もちっと願いの内容、自分の。というものをです。検討してみて、ね。間違いのない願いに徹しさせて頂いて、おかげを頂いていきたい。今晩の、総代会には、そういう事を、もう一つ取り上げて、え-、信心の研修をなさって頂くと有難いと思うですね。どうぞ。